アーカイブ

室町時代の愛染明王像や薬師如来坐像

建武三年(一三三六)には、この混乱に乗じた尊氏が京都に室町幕府を開きます。丹後でも南軍・北軍入り乱れての争いが起こり、建武元年(一三三四)から延文元年(一三五六)にかけて、宮津市の成相寺や舞鶴市の荒針城などを巡って、攻防が繰り返されました。その間、丹後守護は何度も入れ替えが行われましたが、貞治三年(一三六四)ごろ以降、山名師義・義幸・満幸と山名氏が守護職を引き継ぎました。一族で十一力国の守護職を占めた山名氏も、室町幕府三代将軍・足利義満との対立によって勢力が減退。丹後守護山名満幸は丹後の土豪を頼りにしますが、味方する者はなく、山陰各地で転戦の後、応永二年(一三九五)京都で落命しました。この論功行賞により、一色詮範の子満範が丹後守護職に任せられ、以後、ほぼ一色氏に職が引き継がれました。施楽寺は真言宗の寺で、平安時代に大江山赤石岳の中腹にあったと伝えられる根本寺が移転して、施薬寺となったといいます。寺には本尊である室町時代の愛染明王像や薬師如来坐像(いずれも町指定文化財)などの諸像が伝わり、戦国時代の永正六年には住僧が大峰山へ山伏修行に参加していることから、中世には修験寺院となっており、坊もいくつかあったようです。また、「方士求不死薬図六曲屏風」(府指定文化財)は、与謝蕪村の丹後時代の大作。これは秦の始皇帝の命で、不老不死の薬を求めて東方する徐福伝説を表した画です。玉田寺(与謝野町弓木)寺では奈良時代の東大寺良弁による開基伝承を持ちますが、詳細は明らかではありません。天正元年に、弓木城主と伝えられる一色氏が寺を再建したといいます。この時に寺号を玉田寺と定め、模翁祖範を京都万寿寺から迎え中興の開山としました。その後、嘉永三年、弓木の大火に遭遇して全てを焼失しましたが、三年後には本堂を再建、以降代々整備が進められ、今日に至っています。
[参考]
夕日ヶ浦温泉「坂本屋瑠璃亭」